ヴォイニッチ手稿とは?史実・仮説・最新研究
ヴォイニッチ手稿とは?史実・仮説・最新研究
イェール大学バイネキ稀覯本・手稿図書館の高精細ビューアでヴォイニッチ手稿の植物ページをフルスクリーンにすると、どこか薬草書を思わせる葉や根のかたちが目に入るのに、その脇を埋める連続した字形だけは一文字もこちらに開いてくれません。
イェール大学バイネキ稀覯本・手稿図書館の高精細ビューアでヴォイニッチ手稿の植物ページをフルスクリーンにすると、どこか薬草書を思わせる葉や根のかたちが目に入るのに、その脇を埋める連続した字形だけは一文字もこちらに開いてくれません。
折り込みの宇宙論図を拡大すると、余白の少なさと書字の一貫性がいっそう際立ち、そこに意味は通っているのに、読む側だけが入口を見つけられないという奇妙な距離を実感します。
この未知の文字で書かれた彩色挿絵入りの羊皮紙写本ヴォイニッチ手稿(MS 408)は、現在も未解読のままイェール大学に所蔵されています。
本稿は、この写本を初めて整理して理解したい人に向けて、確定している事実、競合する主要仮説、そして2024〜2025年時点の研究到達点を三つの層で見ていきます。
読み終える頃には、羊皮紙の年代が1404年〜1438年頃に収まること、1912年にウィルフリッド・ヴォイニッチが入手し、1969年にイェール大学へ寄贈された来歴を説明できるはずです。
同時に、暗号文説、未知自然言語・人工言語説、捏造説のそれぞれについて、何が根拠でどこが弱いのかを切り分け、「解読成功」の報道に飛びつく前に自分の目で重みを測れる状態を目指します。
ヴォイニッチ手稿とは何か
定義と館番号
ヴォイニッチ手稿(Voynich Manuscript)は、未知の文字で本文が記され、彩色挿絵をともなう羊皮紙写本です。
現在の館番号はMS 408で、所蔵先はイェール大学バイネキ稀覯本・手稿図書館(Beinecke Rare Book & Manuscript Library)です。
1912年に古書商のウィルフリッド・ヴォイニッチがイタリアで入手して以降、その名で呼ばれるようになり、1969年にH. P. Krausを通じてイェール大学へ寄贈されました。
この写本をひとことで言えば、「読めそうで読めない」という感覚そのものを物にしたような本です。
筆者もバイネキ図書館の高精細ビューアで一葉を開き、数十秒ほど普通の写本のつもりで目を走らせたことがあります。
ところが、字形の反復や行の流れはたしかに“文章らしい”のに、頭の中で音に変わらないのです。
ラテン語写本なら文字の断片が発音へ、発音が語の記憶へつながりますが、この手稿ではその回路が最初の一歩で止まります。
未知文字資料に向き合ったときの最初の違和感は、まさにそこにあります。
年代については、羊皮紙の放射性炭素年代測定が15世紀前半、1404年〜1438年頃を示しています。
ただし、これは羊皮紙そのものの年代を示す数値であり、どこで、どのような環境のもと成立したかという細部まで確定したわけではありません。
作成地や成立事情はなお議論の対象です。
物理的特徴とページ構成
現物のサイズは約23.5×16.2×5 cmです。
手に取れば携行可能な冊子の範囲に収まる大きさですが、中身は驚くほど密です。
文字列はほぼ全体にわたって整ったリズムで続き、そこへ植物図、天文・占星図、生物学的図像、宇宙論的な折り込み図、薬学的な要素、レシピ風テキストが差し込まれます。
見た目の印象だけなら、中世後期の実用書や自然誌、あるいは医療知識の集成に近い顔つきをしています。
現存するのは約240ページで、欠落があることもわかっています。
過去にはもっと多い分量だったとみられ、少なくとも28ページ相当が失われた可能性があります。
ページ数の表記が文献ごとに揺れるのは、葉で数えるかページで数えるか、また欠落部や折り込みをどう扱うかが一定でないためです。
そのため、全体像をつかむうえでは「現存約240ページ、欠落あり」と押さえるのが実態にいちばん近い整理になります。
ページ構成にも独特の手がかりがあります。
クワイア番号が振られている箇所があり、後世のページ番号も残っています。
つまり、この写本はばらばらの断片ではなく、もともと一定の順序と編成意図をもって束ねられていた本です。
図像のまとまりごとに本文の語彙や書字の傾向が変わるように見える点も、研究史では長く注目されてきました。
いわゆるCurrier A/Bという分類はその代表例ですが、これは研究上の便利な区分であって、二つの別言語が確認されたという意味ではありません。
未解読という現在地の確認
ここで最も強く押さえておきたいのは、ヴォイニッチ手稿は現在も未解読だという一点です。
歴史番組やニュース記事では、ときおり「ついに解読」「正体が判明」といった見出しが踊りますが、学術的に広く受け入れられた翻訳や読解はまだ成立していません。
したがって、解読されたという断定は、少なくとも現段階では誤解を招く表現です。
研究の立場は大きく分けて三つあります。
既知言語を暗号化した暗号文だとみる立場、本文自体が未知の自然言語または人工言語だとみる立場、規則性をもつ無意味文あるいは捏造だとみる立場です。
どの説にも根拠はありますが、どれも決定打には届いていません。
2025年には、15世紀に実行可能な冗長な同音換字暗号として生成できるというNaibbe cipherの提案も現れました。
ただし、これは「こう作れた可能性がある」というモデルの提示であって、本文の意味を読み解いた研究ではありません。
どちらも手稿理解の輪郭を少しずつ明確にする動きですが、本文の読解が確立したわけではない、という位置づけは変わりません。
この写本の不思議さは、何もわからないことではなく、わかっている事実と、わからない核心が同時に並んでいる点にあります。
羊皮紙の年代、所蔵先、館番号、欠落の存在、図像の大まかな区分までは地図のように描けるのに、本文の意味だけが地図の中央で白く抜け落ちている。
その白地が埋まらないかぎり、MS 408は「謎の本」である前に、まず「未解読の写本」と呼ぶのがもっとも正確です。
いつ・どこで作られ、どう伝わったのか
羊皮紙の年代測定
時系列の出発点として、まず動かしにくい事実を置いておきます。
ヴォイニッチ手稿の羊皮紙は、放射性炭素年代測定によって1404年〜1438年頃の範囲に収まります。
ここで示されているのは本文の意味ではなく、写本の材料そのものの時期です。
つまり、「この本に使われた羊皮紙が15世紀前半のものだ」とまでは言えても、「その瞬間に本文も書かれた」とまでは言い切れません。
羊皮紙は作られてから少し置かれて使われることがあるため、執筆時期は材料年代よりわずかに後ろへずれる余地があります。
この一点を押さえるだけで、来歴の見通しがぐっと良くなります。
筆者はVoynich.nuの来歴年表を横目に置きながら、読者といっしょにノートへ線を引く気持ちで、まずこの年代測定結果を「確定」の色で塗ります。
どこで書かれたか、誰が書いたか、何語なのかはまだ空欄が残るとしても、材料の時代が15世紀前半であることは、議論の土台になります。
のちに出てくる皇帝ルドルフ2世や17世紀の書簡伝承は、この土台の上に重ねて読む必要があります。
17世紀の書簡伝承とルドルフ2世
ここから先は、確定事実と伝聞が交じり合います。
17世紀来歴の中心となるのは、ヨハネス・マルクス・マルチ(Johannes Marcus Marci)がアタナシウス・キルヒャー(Athanasius Kircher)へ送った1665年または1666年付の書簡です。
書簡には「この写本はかつてルドルフ2世が600ドゥカートで入手したと聞く」といった伝承が記されており、有名な「皇帝が高額で買った謎の本」という物語はここから広まりました。
この17世紀の人物関係は、名前を並べるだけでなく、受け渡しの流れとして見ると輪郭が出ます。
まず手稿にはヤコブス・ホルチツキー・デ・テペネツ(Jacobus Horčický de Tepenecz)の名に結びつく所有痕跡があり、彼はルドルフ2世に近い宮廷圏の人物でした。
ついで17世紀半ばになると、プラハの学識者ゲオルク・バレシュ(Georg Baresch)がこの不可解な写本に頭を悩ませ、解読の助けを求めてキルヒャーへ接触したことが知られています。
バレシュの死後、その問題意識は友人のマルチへ引き継がれ、マルチが手稿そのものをキルヒャーに送った、という流れです。
つまり、人物の系譜としては、Jacobus Horčický de Tepenecz → Georg Baresch → Johannes Marcus Marci → Athanasius Kircherという線が見えてきます。
ここで比較的確かなのは、17世紀にバレシュ、マルチ、キルヒャーのあいだでこの写本が問題の書物として認識されていたことです。
いっぽう、そこからさらに遡って「ルドルフ2世が600ドゥカートで買った」という一文になると、史料の性格は一段変わります。
1599年の宮廷会計記録には、ルドルフ2世がカール・ヴィーデマンから小写本群を購入した記録があり、この伝承と響き合うため注目されますが、その取引が現在のヴォイニッチ手稿そのものだったとまでは確定していません。
このあたりは、ルドルフ2世の宮廷という舞台があまりに魅力的なので、つい物語が先走ります。
占星術、錬金術、珍品蒐集が交差するプラハ宮廷にこの写本を置くと、たしかに絵になります。
けれど史実の線はもう少し細い。
来歴を誠実にたどるなら、「17世紀の書簡がそう伝えている」「宮廷圏と結びつく人物名は見える」「皇帝購入の直接証明はなお限られる」という三段階で読むのがちょうどよいところです。
20世紀以降の所有史
手稿の中には何が描かれているのか
植物セクション
手稿を開いてまず目を引くのは、やはり植物図です。
研究上はしばしばHerbalと呼ばれ、ページごとに一株の植物らしき図が大きく置かれ、その周囲や上下に本文が添えられます。
葉、茎、根がそれぞれ強調される構図は、中世の薬草書を連想させますが、そこで描かれている植物を現代の種名にそのまま当てはめられるわけではありません。
既知の薬草に似た部分がありながら、全体としては一致しない図が多く、ここで言っている「植物セクション」は、あくまで挿絵の見た目による分類です。
内容が植物学の本文だと解読された、という意味ではありません。
実物を眺める入口としては、まず一枚の植物ページをフルスクリーンにして、線の引き方を見てみると輪郭が立ちます。
葉脈や根は細かく枝分かれしつつ、外形線は比較的はっきり引かれ、彩色は面を塗り分けるように置かれています。
筆者はこのあと星図ページへ移り、さらにあの「浴槽の女性たち」のページへ切り替えて見比べることがあります。
すると、配色の置き方、輪郭線の太さ、図中に説明用の凡例があるかないかといった、言葉を読まなくても拾える規則が見えてきます。
植物ページでは一つの対象を中央に据える傾向が強く、見る側の視線も上下にまとまりやすい。
そうした視覚上の秩序を書き出すだけでも、手稿が無秩序な落書きの束ではないことが伝わってきます。
天文・占星セクション
次に現れるのが、星や円盤、帯状の配置が目立つ天文・占星系の図像です。
ここはAstronomicalAstrologicalと呼ばれることが多く、太陽や月を思わせる顔つきの円、星を散らした円環、黄道十二宮を想起させるモチーフなどが並びます。
中世の知識世界では天文学と占星術がきっぱり分かれていなかったので、この二つを一続きの図像群として扱うのが自然です。
この部分のおもしろさは、植物ページとは違って、絵が中央から外周へ、あるいは外周から中央へ視線を回転させるように作られている点です。
円周上に小さな要素が並び、同じ形が反復されるため、本文を読めなくても「これは周期や配列を扱っている図だろう」と感じられます。
ここでも分類は図像整理の便宜であって、「この円は何月を示す」「この記号は特定の星を表す」と確定したわけではありません。
ただ、同じ円図でも植物ページの静かな一枚絵とは別のルールで組まれていることは、目で追えば十分につかめます。
筆者が見比べるワークを勧めたくなるのもこのためです。
植物ページから星図へ移ると、同じ手で描かれたように見える色調でも、構図の論理はがらりと変わります。
中央集約だった画面が、今度は周回運動を始める。
その変化に気づくと、手稿の各部がばらばらな寄せ集めではなく、主題ごとに図像の作法を切り替えているように見えてきます。
生物学的図像と浴槽
ヴォイニッチ手稿のなかでも、とりわけ強い印象を残すのが、裸の女性像が多数描かれたページ群です。
研究史ではBiologicalと呼ばれることが多く、管のような形、液体をたたえた槽、器官や循環を連想させる構成が見られます。
日本語ではしばしば「浴槽の女性たち」と言われますが、その呼び名自体が、読者の第一印象をよく表しています。
小さな槽に一人ずつ入っていたり、管状の通路でつながっていたりするため、入浴図のようにも、身体内部の比喩図のようにも見えるからです。
ただし、この図像群は見た瞬間に意味が一つへ定まるものではありません。
入浴習俗、医療、解剖学的想像図、生殖や婦人医学の象徴表現など、いくつもの読み筋が交差します。
近年は中世の女性の性や生殖に関する知識との関連を探る研究もありますが、それも図像と同時代資料の照合による解釈であり、本文の文字列が解読されて裏打ちされた段階ではありません。
ここでも大切なのは、図像のまとまりとして把握することと、意味の確定は別の作業だという点です。
植物ページ、星図ページ、そしてこの「浴槽の女性たち」を続けて眺めると、手稿の変化の幅が一気に見えてきます。
植物では対象が単体で置かれ、星図では円運動が前面に出る。
ところが生物学的図像では、人物と容器と管がページの中で関係を結び、絵が小さな場面の連続として流れ始めます。
凡例のような補助線が少ないぶん、見る側は絵そのもののつながりを追うことになる。
この移り変わりは、読めない文字列の壁を越えて、まず図像から手稿に入っていくためのよい足場になります。
宇宙論的折り込み
手稿には、通常のページより大きく展開される折り込み図も含まれます。
ここがCosmological foldoutsと呼ばれる部分で、同心円、放射状の区画、都市や島のように見える囲い、道や流路を思わせる線が複雑に組み合わさっています。
通常ページの枠を越えて画面が広がるため、手稿の中でもひときわ「設計された図面」という印象が強い箇所です。
この折り込みは、紙面で見るよりデジタル画像で見るほうがむしろ構造をつかみやすい場面があります。
高解像度画像を最大近くまで拡大し、横や縦へ少しずつスクロールすると、同心円の中心から外側へ、あるいは外縁から別の区画へ、視線が地図をたどるように動きます。
筆者はこのとき、文章を読もうとせず、まず道筋だけを追います。
円がどこで途切れ、どこで接続し、放射状の線がどの区画を束ねているかを追っていると、暗号文を読むというより、都市図や世界図の未知の凡例を推測している感覚になります。
これはヴォイニッチ手稿を見る体験のなかでも、独特の時間です。
折り込みページの存在そのものも見逃せません。
手稿は小型本の範囲に収まりながら、必要な場面では紙面を外へ広げてまで図を配置している。
描き手は「ここは通常ページでは足りない」と判断したわけです。
その判断は、少なくともこの図像群が単なる余白の遊びではなく、全体構成の中で特別な役目を担っていたことを示しています。
もっとも、その役目が宇宙図なのか、地図的整理なのか、儀礼的配置なのかは、なお読解の対象として残っています。
ℹ️ Note
折り込み図は一度に全体像を見てから、次に拡大して細部を追うと、構図と筆致の両方がつかめます。先に細部へ入りすぎると、どの円や区画を見ているのか見失いがちです。
薬学・レシピ風セクション
後半には、小さな植物部位や容器のような図が並び、短い本文が区切られて続くページ群があります。
ここはPharmaceuticalあるいはRecipesと呼ばれます。
壺や瓶に見える形、根や葉を切り出したような断片図、段落ごとに区切られた短文のまとまりが特徴で、薬品集や処方集を思わせる見た目です。
この部分に来ると、植物セクションの「一ページに一株」という堂々とした構図から、情報が小さな単位へ分解されていきます。
図像の役目も変わり、主役の絵というより、本文に付属する目印のように見えてきます。
中世写本に親しんだ目には、材料一覧や調剤指示、簡易レシピ集の気配が漂いますが、ここでも名称は便宜上のものです。
レシピ風に見えるからそう呼ばれているのであって、すでに配合や手順が読めたわけではありません。
こうして並べてみると、ヴォイニッチ手稿の主題分類は、解読結果の目次ではなく、絵のふるまい方を手がかりにした地図だとわかります。
植物、星、女性像、折り込み図、容器と短文。
その順に追っていくと、読めない文字の壁の前でも、どのページで何に注目すべきかが見えてきます。
手稿に近づく入口として図像分類が長く使われてきたのは、そのためです。
意味の確定には届いていなくても、観察の順路としては今もよく働きます。
なぜ解読が難しいのか
未知文字・未知言語・暗号文の違い整理
ヴォイニッチ手稿の解読を難しくしている第一の理由は、そもそも何を相手にしているのかが定まっていないことです。
未知の文字体系を書き写した文書なのか、既知の言語を暗号化した文書なのか、それとも文字も言語も私たちの知る系統にそのままは乗らないのか。
この出発点が揺れたままなので、解読の戦略も一つに絞れません。
ここは、しばしば一括りにされますが、実際には別問題です。
未知文字であれば、まず字形と音価の対応を探る必要があります。
暗号文なら、平文が別にあって、それをどう変換したかという手続きの復元が先になります。
未知言語なら、文字が読めても意味が取れないという壁が残ります。
ヴォイニッチ手稿は、この三つの可能性が重なった場所に置かれているため、研究者は毎回「文字の問題なのか、言語の問題なのか、暗号の問題なのか」を切り分けるところから始めなければなりません。
暗号史の文脈では、「天才的なひらめきが一発で当たれば読めるはずだ」と思われがちです。
けれど実際には、前提条件が一つずつ確定していない資料に対しては、ひらめきより観察の積み重ねがものを言います。
ヴォイニッチ手稿が手ごわいのは、難解な鍵が隠れているからというより、問題設定そのものがまだ固定されていないからです。
対訳資料の不在が生む壁
古文書解読の歴史で決定打になりやすいのは、同じ内容が二つの文字体系や二つの言語で書かれた資料です。
いわばロゼッタ・ストーン型の足場です。
片方が読めれば、もう片方の文字や語の対応を少しずつ押さえられるからです。
ところがヴォイニッチ手稿には、その種の対訳資料が見つかっていません。
本文の一部だけでもラテン語注記が併記されている、あるいは同内容の既知テキストが別写本として残る、といった手がかりがないのです。
この欠落は、想像以上に重い壁です。
たとえば植物図があるから植物名が書かれているはずだ、と考えても、その「はず」を検証する対照表がありません。
星図らしきページに十二宮が描かれているように見えても、そこに添えられた語が星座名なのか、人名なのか、月名なのかを照合する基準がない。
絵が意味の入り口になる一方で、文字列の意味を確定する橋にはなり切らないわけです。
筆者は古い暗号資料を見るとき、まず既知の対応表がどこまであるかを確かめます。
ヴォイニッチ手稿では、その最初の作業で手が止まります。
読めない文字列が長く続いているのに、どこにも「これはこれに対応する」と言ってくれる支点がない。
この状態では、見事な解読案が現れても、検証の仕組みまで同時に示せなければ広く受け入れられません。
難しさは、解答を思いつくことより、その解答を確かめる方法が乏しいことにあります。
統計的規則性とCurrier A/B
それでもヴォイニッチ手稿が単なるでたらめな落書きに見えないのは、文字列に規則性があるからです。
語の長さには偏りがあり、よく現れる語とめったに現れない語が分かれ、さらに行頭や段落頭に出やすい形まで見えてきます。
自然言語に似たふるまいを見せる部分がある一方で、既知の言語としては妙に整いすぎていたり、反復が目につきすぎたりする。
そこが研究者を長く引きつけてきた点です。
この感覚は、実際に一行だけでも転写してみるとよくわかります。
EVAで短い行を写していくと、“qokedy”や“qokeedy”のような、よく似た語が繰り返し現れます。
並べて眺めると、同じ語が機械的に複製されている印象とも、語尾変化や綴り揺れを持つ自然言語の印象とも取れる。
しかも、そのどちらか一方へ素直には寄ってくれません。
数文字の差しかない反復が続くため、読み手は「規則がある」ことまでは掴めても、「その規則が何の規則か」が定まりません。
この統計的な観察から生まれた代表的な区分がCurrier A/Bです。
文字頻度や綴りの癖に注目すると、手稿の本文は少なくとも二つの系統に分かれる、という観察です。
一般にキュリアーAキュリアーBと呼ばれます。
ここで慎重に見ておきたいのは、AとBが観察上の分類だという点です。
二人の筆者がいたのか、二つの時期があるのか、主題による文体差なのか、あるいは二つの別言語に近い違いなのかまでは、そこから自動的には決まりません。
分類は前進ですが、説明そのものではないのです。
筆者は簡単な頻度表を手で作ることがあります。
数十語ぶんでも、特定の字形、いわゆる“ガローズ”と呼ばれる背の高い文字が段落頭に集まる印象がはっきり出てきます。
表を眺めると、無秩序に散らばるというより、書き出しの位置に役目を持って置かれているように見える。
この「位置依存の癖」があるため、ヴォイニッチ手稿はなおさら厄介です。
自然言語らしさと、人工的に配置された気配が、同じページの上で同居しているからです。
EVA転写で何が可能になるか
この難物に取り組むための基盤になっているのがEVA(Extensible Voynich Alphabet)です。
これは解読ではなく、字形を一貫したローマン文字列に写すための標準的な転写法です。
読めない文字を、まず研究者同士で同じ記号列として扱えるようにする。
その役目が大きいのです。
EVAの価値は、意味がわからなくても検索と計量ができる点にあります。
どの語が何回出るか、どの語がどのセクションに偏るか、行頭に何が現れるか、A系統とB系統で何が違うか。
こうした比較は、字形の呼び方が研究者ごとにばらばらだと進みません。
EVAがあることで、ヴォイニッチ手稿は「読めないまま分析できる」資料になりました。
これは解読の遠回りではなく、前提を整えるための本道です。
実際、読者にも一度だけミニワークとして試してみてほしいのが、この転写です。
高解像度画像の一行を見ながら、同じ字形には同じローマン文字を当てて写していく。
数語ぶん進めるだけで、“qokedy”と“qokeedy”のような反復と微差が目に残ります。
見慣れない筆記なのに、妙に見覚えのある塊が何度も戻ってくる。
この感覚は、単に「読めない文字列」ではなく、「統計処理にかけたくなる文字列」であることを実感させます。
EVAは万能鍵ではありません。
けれど、手稿を感覚的な神秘から観察可能な対象へ引き戻した道具でした。
未知の字形を、まず比較可能なデータへ変える。
この一歩があってはじめて、語長分布や頻度、位置依存、Currier A/Bのような議論が積み上がっていきます。
訂正痕の少なさという謎
もう一つ、解読を難しくしている観察があります。
これほど長い本文を持つ写本でありながら、はっきりした訂正痕が驚くほど少ないことです。
通常、長文を書けば書き損じ、削り、上書き、語順の入れ替えといった痕跡がもう少し見えてきます。
ところがヴォイニッチ手稿では、それが目立ちません。
この事実は二つの方向へ読みを誘います。
一つは、書き手が異様に滑らかに書けるほど、内容か記法に習熟していたという見方です。
もう一つは、そもそも生成過程が普通の散文執筆とは違ったのではないか、という見方です。
たとえば定型的な単位を組み合わせていたのか、何らかの表や手順に従っていたのか、あるいは意味伝達以外の目的を強く持つ記述だったのか。
どの方向へ進んでも、訂正痕の少なさは「ただ読めない」以上の謎を投げ返してきます。
ここでも、単純に天才を待てば済む話ではないことが見えてきます。
未知文字か、未知言語か、暗号文かが定まらず、対訳資料もなく、統計には規則があり、しかも本文の作られ方自体がふつうの写本と少し違って見える。
ヴォイニッチ手稿の難しさは、一つの錠前に合う鍵が見つからないことではありません。
錠前が何種類あるのかさえ、まだ数え切れていないところにあります。
主要な仮説を整理する
暗号文説
暗号研究の歴史に身を置いていると、ヴォイニッチ手稿を見たとき最初に引き寄せられるのは、やはり暗号文説です。
理由は単純で、本文がでたらめに散っているのではなく、反復、位置依存、語形の偏りといった規則の束を持っているからです。
しかも、そうした規則が中世後期からルネサンスにかけての秘匿実務、つまり医術、占星術、宮廷知識、個人的な秘伝の保護という文脈にうまく収まります。
羊皮紙の年代も15世紀前半に置かれており、暗号を用いた秘匿がすでに現実的な技法だった時代と重なります。
この説を近年いっそう面白くしたのが、2025年のCryptologia掲載論文で論じられたNaibbe cipher研究です。
この研究は、15世紀に実行可能な、冗長性を持つ同音換字暗号でも、ヴォイニッチ手稿に見られる統計特性の一部を再現しうると示しました。
ここで効いてくるのは、「中世人にはそんな複雑な暗号は無理だったのではないか」という反論を弱めた点です。
机上の空論ではなく、当時の技術水準でも作成可能な設計として組み立てられるなら、暗号文説は歴史的現実味を一段増します。
ただし、暗号文説には決定的な弱点もあります。
暗号なら、どこかに鍵があり、元の平文があり、記号との対応規則があります。
ところが、その三点セットがひとつも実証されていません。
解読案はこれまで無数に提出されてきましたが、同じ規則で手稿全体を安定して読み通し、図像や文脈とも噛み合う例は出ていません。
暗号として「作れそうだ」ということと、「実際にこれがその暗号である」ということのあいだには、まだ深い溝があります。
筆者自身、暗号史の資料を読む癖で、規則が見えるとつい「これは隠した文だ」と考えたくなります。
けれど、ヴォイニッチ手稿はその直感を何度も裏切ります。
暗号文にしては、語の並びがどこか自然言語めいている。
しかも長大な本文全体が同じ温度で保たれている。
そのため、暗号文説は有力な候補でありながら、依然として“有力候補”の位置にとどまっています。
未知自然言語説
未知自然言語説は、手稿本文そのものがある自然言語を表している、ただしその言語が現代の研究者に未同定である、という立場です。
これが根強い理由は、語彙分布のふるまいにあります。
ある語がよく現れ、別の語は限られた場所に偏り、主題の違うセクションでは語の顔ぶれも変わる。
こうした現象は、薬草・天文・身体・処方のように主題ごとの語彙が入れ替わる自然言語文書と相性がいいのです。
前の節で触れたCurrier A/Bも、この説にとっては追い風になりえます。
もし本文が未知の自然言語、あるいは近縁な複数の言語的レジスターを反映しているなら、セクションごとの差や書記習慣の差として理解できる余地があります。
植物篇で使われる語と、天体図の周囲に現れる語が違っていても不思議ではありません。
本文が一見奇妙でも、語の偏在や語長のまとまり方には、どこか「話される言葉」「書かれる言葉」の気配が残ります。
この説の壁は、既知言語との確かな接続点がまだ見つからないことです。
たとえばラテン語、ドイツ語系、ロマンス語系、ヘブライ語系などへの比定は繰り返されてきましたが、どれも局所的な似姿にとどまりました。
未知自然言語説が成立するには、少なくとも音価か意味の一部を外部資料と突き合わせられる必要があります。
地名、人名、月名、植物名でもよいのですが、そうした“足場”が決まりません。
対訳文書もなく、確実な固有名詞もつかめないため、自然言語らしさがそのまま同定にはつながらないのです。
それでも、この説が消えないのは理解できます。
筆者もEVA転写を見比べていると、無意味な記号列というより、未知の語彙体系を眺めている感覚に寄る瞬間があります。
特定の章だけに顔を出す語群、行頭に立ちやすい形、語尾のまとまり方は、乱数よりも言語に近い表情を持っています。
未知自然言語説は、証明の手前で足を止められているというより、証明に必要な外部の手がかりをまだ得られていない、と言ったほうが実感に近いです。
人工言語説
人工言語説は、本文が自然発生的な言語ではなく、意図的に設計された体系で書かれているという見方です。
ヴォイニッチ研究史では、William F. Friedmanがこの方向を示唆したことでよく知られます。
もっとも、その示唆を裏づける一次の逐語的な引用箇所は現時点で明瞭に押さえきれておらず、ここでは研究史上の流れとして扱うのが穏当です。
この説が魅力を持つのは、ヴォイニッチ手稿の“両義性”をうまく説明できるからです。
自然言語に似た統計を持ちながら、既知言語にはぴたりと重ならない。
位置による字形の偏りがあり、語の組み立てにも定型的な部品の再利用が見える。
こうした特徴は、あらかじめ設計された記法や哲学言語、秘儀的な分類言語のようなものを想像させます。
中世末から近世にかけては、普遍言語や記号体系への関心も断続的に存在したので、発想そのものが時代錯誤というわけでもありません。
しかし、人工言語説は外部証拠が薄いのが痛いところです。
本当に設計言語なら、作成者のメモ、学習用の一覧、語彙表、あるいは同じ体系で書かれた別文書がどこかに残っていてほしい。
ところが、そうした運用実例が見つかっていません。
孤立した巨大写本ひとつだけが残るという状況は、人工言語説にとって説明の負担が重いのです。
人工言語は理論上は可能でも、社会的な使用痕跡が乏しいままでは、想像力が先走りやすくなります。
それでも、この説には独特の粘りがあります。
暗号文説が「元の言語を隠したもの」と考えるのに対し、人工言語説は「本文そのものが仕組まれている」と考えるため、ヴォイニッチ手稿の不思議な均整を説明しやすい。
読んでいると、誰かが情報だけでなく、情報の並べ方そのものを設計したのではないかと思わされる場面があるからです。
とはいえ、その設計思想を実証する文献的足場はまだ不足しています。
捏造/無意味文説
捏造、あるいは無意味文説は、本文に意味伝達の実体はなく、規則的に見える文字列を人工的に作ったという立場です。
長く解読に失敗してきた事実は、この説に一定の説得力を与えてきました。
とくにCardano grilleのような生成手法や、定型パターンを組み合わせる方法を使えば、もっともらしい反復や語形の揺れを作り出せるという議論は、机上実験としてよく通ります。
一定の規則性があること自体は、意味を保証しません。
この見方が刺さるのは、ヴォイニッチ手稿に訂正痕が少ないこととも結びつくからです。
もし本文が自由な散文ではなく、あらかじめ定めた部品を順に配置していく作業だったなら、書き損じが少なくても不思議ではありません。
ページ全体の雰囲気も、薬草書や天文書らしく見える図像を添えることで、もっともらしさを増せます。
解読不能であること自体が、作品の演出だったという読みも成り立ちます。
ただ、この説にも簡単には越えられない壁があります。
まず、写本全体を作るコストです。
羊皮紙の確保、長文の筆写、図像の描写、製本まで含めると、軽い悪戯では済みません。
しかも現存部分だけでも相当な分量があり、失われた葉を含めればなおさらです。
これほど手間と資源を投じて、ただの無意味文を作る動機は何か。
詐欺、知的遊戯、収集家向けの珍品制作など候補は挙がりますが、どれも写本全体の労力ときれいに釣り合うわけではありません。
もう一つの問題は、観察される統計特性の複雑さです。
単純な捏造なら、反復は作れても、主題別の語彙差や位置依存、局所的なまとまりまで一貫して保つのは骨が折れます。
もちろん、巧妙な生成手順を想定すれば可能性は残ります。
けれどその場合、もはや「雑なでっち上げ」ではなく、よく設計された生成システムになります。
すると今度は、それを作った人物は何を目的に、なぜそこまで精密な無意味文を作ったのか、という問いが前面に出てきます。
比較表
論争の整理では、文章だけで追うと立場が少しずつ混ざります。
筆者は講義や読書会で、この種の未解読資料を扱うとき、比較表の余白に各説への納得度を1〜5でペン書きしてもらうことがあります。
面白いのは、数週間後に見直すと数字が静かに動いていることです。
暗号文説に4をつけた人が3に下がり、無意味文説に2だった人が3へ寄る。
未解読資料は、正解を当てるより、評価が揺れ続ける状態そのものから学ぶ対象なのだと、そのとき実感します。
| 仮説 | 何を主張するか | 主な根拠 | 弱点 | 最新研究との整合性 | 現時点の位置づけ |
|---|---|---|---|---|---|
| 暗号文説 | 既知言語やラテン語系の平文が暗号化されている | 統計的規則性、中世末の暗号実務との親和性、2025年のNaibbe cipher研究 | 鍵・平文・対応規則の実証がない | 近年の研究で補強材料が増えた | 有力だが未証明 |
| 未知自然言語説 | 本文自体が未知の自然言語を表している | 語彙分布、主題別語彙差、自然言語に似た局所構造 | 既知言語との確実な同定や対証がない | AI・統計分析とも衝突せず存続している | 有力だが未証明 |
| 人工言語説 | 意図的に設計された言語・記法で書かれている | 既知言語に収まらない一方で規則性が強い点、研究史上のFriedmanの示唆 | 運用実例や外部資料が乏しい | 否定はされていないが直接補強も弱い | 可能性はあるが証拠不足 |
| 捏造/無意味文説 | 意味のある本文ではなく、規則的に見える無意味文である | 生成手法で類似パターンを作れること、長年の解読失敗 | 制作コストの説明、複雑な統計特性の説明が苦しい | 一定の支持はあるが決定打に欠ける | 可能性はあるが単純化はできない |
この表を眺めると、どの説にも「根拠」と「つまずく場所」が同じ重さで存在しているのが見えてきます。
ヴォイニッチ手稿の議論が長く終わらないのは、どの仮説にも一理あるからであり、同時にどの仮説もまだ写本全体を引き受け切れていないからです。
ここでは勝ち残りを決めるより、各説が何を説明し、何を説明できていないかを切り分けておくほうが、次の論点へ進む足場になります。
解読をめぐる主な試みと失敗
Friedman の研究遺産
20世紀半ば、この手稿に本腰を入れて向き合った人物として外せないのがウィリアム・フリードマンです。
第二次世界大戦期の米国暗号学を代表する存在であり、個人の思いつきではなく、専門家集団でヴォイニッチ手稿を検討した点に歴史的な重みがあります。
しかも結論は、鮮やかな「解読成功」ではありませんでした。
むしろ、腕利きの暗号解読者たちが長く取り組んでも決定打に届かなかったという事実そのものが、研究史の基準線になっています。
この基準線は、いま読み返しても厳しいものです。
暗号として読むなら鍵や変換規則が要る。
自然言語として読むなら対応語彙や対訳資料が要る。
どちらも揃わないまま、文字列だけが整然と並んでいる。
フリードマン周辺では、人工言語に近い可能性が示唆されたと広く語られてきましたが、その点は一次の逐語引用がまだ固まっていません。
したがって、「フリードマンが人工言語説を断定した」と書くのは踏み込みすぎで、ここは二次資料で繰り返し言及されるが、一次引用は要補強という位置づけに留めるのが妥当です。
筆者がフリードマン関連の記録を追うとき、いちばん印象に残るのは、天才の敗北譚ではなく、方法の節度です。
分からないものを分からないまま残す態度がある。
未解読資料の世界では、この節度こそが後続研究の土台になります。
派手な見出しは残りませんが、研究史の背骨を作ったのはこうした不首尾の蓄積でした。
Bax の部分解読主張
スティーブン・バックスの名が広く知られたのは、植物図や星図に注目し、固有名詞から本文の一部を読めるのではないかと主張したからです。
着想そのものは魅力的です。
未知文字体系の解読では、地名・人名・星名のようなラベル的要素が突破口になることがあるからです。
図像と語を結びつける発想には、たしかに暗号史・文字解読史の王道らしさがあります。
ただし、この主張が広く受け入れられたとは言えません。
理由ははっきりしています。
候補語の選び方に裁量が入りやすく、別の研究者が同じ手順で同じ読みに到達しにくいからです。
たとえば「この植物はこれに見える」「この星はこの名称だ」と仮定した瞬間、読みの入口が大きく揺れます。
しかもヴォイニッチ手稿の植物図は写実一辺倒ではなく、複数種の特徴が混ざったように見えるものも多い。
図像同定が不安定なまま文字列対応に進むと、部分解読は成立しても、追試で崩れやすくなります。
研究史を眺めると、バックス説は「全体解読には届かないが、読者に希望を与えるタイプの主張」でした。
未解読資料では、少数の語が読めたという報告はしばしば現れます。
けれど、その少数語が文法、語彙体系、別ページへの展開へと連なっていかなければ、突破口とは呼べません。
ヴォイニッチ手稿ではこの連鎖がまだ見えていません。
AIヘブライ語説の検証限界
2018年前後には、機械学習を使って本文の背後にヘブライ語があるのではないか、という報道が話題になりました。
現代的な手法と未解読写本の組み合わせは見出し映えしますし、読者の目も引きます。
実際、「AIが古文書を読んだ」という語り口には、長年の膠着を一気に破る期待が乗ります。
しかし、ここで問うべきなのはAIの新しさではなく、検証設計です。
未知文字列をどのように前処理したのか。
文字の切り分けは妥当か。
比較対象に使った言語データは何か。
出てきた候補が偶然より有意だとどう示したのか。
こうした要所が弱いままでは、機械学習は「らしく見える答え」を量産できます。
しかもヴォイニッチ手稿では、そもそも転写系が複数あり、どの文字を同一視するかだけでも結果が揺れます。
入力が不安定なら、出力の華やかさに意味はありません。
筆者は「解読された」という記事を見かけると、まず原論文を開き、次に使ったデータを探し、そのあとに専門家の反論を読むという順番を崩しません。
この三点を辿ると、AIヘブライ語説の弱点は見えやすくなります。
原論文では、手法の説明が結果の大きさに比べて薄い。
データ面では、再現のための材料が十分に開いていない。
反論を追うと、言語同定の前提や翻訳候補の自然さに疑義が集中している。
こうして並べると、話題性と学術的合意は別物だと腹に落ちます。
AIの導入自体は無意味ではありません。
実際、文字分布やページ間の差異、図像とテキストの対応を調べる補助線としては有望です。
ただ、AIが示した「もっともらしい候補」を、そのまま言語同定や解読成功へ飛躍させた瞬間に、議論は弱くなります。
ヴォイニッチ手稿では、その飛躍が何度も繰り返されてきました。
Nicholas Gibbs説の否定
2017年のニコラス・ギブズ説も、短期間で大きな注目を集めた事例です。
概要は、本文を中世医学の略号体系として読み、女性の健康や治療に関するガイドブックだとするものでした。
ヴォイニッチ手稿には裸婦図や薬草風のページがあるため、主題レベルでは一見なじみます。
そのため、図像印象と説明の噛み合いがよく、一般向けには説得的に映りました。
ところが、検証が進むと評価は急速にしぼみます。
略号の対応が恣意的で、提示された読みが本文全体に広がらない。
中世医学写本の実際の略号運用とも噛み合わない。
肝心の文字列から安定した翻訳が得られない。
こうした批判が積み重なり、専門家のあいだでは否定的評価が多数を占めました。
要するに、図像テーマと解読主張が雰囲気としては接続していても、文字そのものの読みが持続しなかったのです。
この件が示したのは、もっともらしい「物語」が先に立つと、本文検証の穴が見えにくくなるということです。
ヴォイニッチ手稿では、植物・天文・医学・女性身体という複数のイメージがすでに強く存在します。
そこへ説明を重ねると、理解した気分になりやすい。
けれど、文字列の再読可能性がなければ、解読ではなく解釈の作文に近づきます。
ギブズ説はその境界線を学ぶ格好のケースでした。
未承認解読主張の見分け方
ヴォイニッチ手稿には、これまで何度も「ついに読めた」という主張が現れてきました。
フリードマン以後の重い不成功があるからこそ、後発の成功談はよく目立ちます。
バックスの部分解読、AIヘブライ語説、ギブズ説のほかにも、既知言語への対応、宗教文書説、地誌説、秘教書説など、未承認の解読主張は枚挙にいとまがありません。
ここで必要なのは、個別説の面白さに乗ることより、評価軸を揃えることです。
💡 Tip
未承認の解読主張を見るときは、査読の有無、再現性、公開データの三つを並べると輪郭がはっきりします。査読がなくても価値が消えるわけではありませんが、再現不能でデータも閉じている主張は、研究というより披露に近づきます。
この三つの軸で眺めると、景色は落ち着きます。
査読が通っているかは、最低限のふるいです。
再現性は、別の人が同じ転写・同じ規則で同じ読みに達するかを問います。
公開データは、その再現性を支える足場です。
どれか一つが欠けても議論は弱りますが、三つとも欠けている主張は、見出しの強さほど中身がありません。
筆者自身、派手な報道に触れたときは、まず興奮を脇に置いてこの順番で見ます。
原論文がなければ、その時点で学術的な土俵は狭い。
原論文があっても、転写データや対応表が出ていなければ追試できない。
反論に答えていなければ、読みは単発の思いつきに留まる。
こうした検証ルーチンを一度身につけると、「解読成功」という言葉の重さが変わります。
成功とは、読めたと主張することではなく、他人が同じ手順で同じ結果に辿り着けることです。
ヴォイニッチ手稿の研究史が教えてくれるのは、失敗の多さではありません。
失敗の積み重ねによって、どんな主張が残り、どんな主張が消えるのか、その選別基準が洗練されてきたということです。
派手な新説が現れるたびに、研究史は少しずつ強くなってきました。
読者が慎重であることは冷淡さではなく、この写本に向き合ってきた長い知的労働への、もっともまっとうな敬意です。
2024〜2025年の最新研究は何を変えたか
女性の性・生殖主題仮説
2024年に出たKeagan BrewerとMichelle L. Lewisの研究は、ヴォイニッチ手稿の図像の読み方に新しい焦点を当てました。
要点は、裸婦図やRosettes周辺の一部図像が、中世ヨーロッパで秘匿されがちだった女性の性や生殖に関する知識とつながる可能性がある、というものです。
Johannes Hartliebのような同時代の医療・秘法・隠蔽実践の文脈と照らし合わせることで、受胎、避妊、流産に関わる知の隠し方まで視野に入れています。
ここで面白いのは、主張の重心が本文の文字列ではなく図像にあることです。
この研究は「ヴォイニッチ文字が何語か」を解いたのではありません。
あくまで、絵が何を主題としているのか、その解釈に中世医学史と女性史の足場を与えた段階です。
この線引きが曖昧になると、図像解釈がそのまま本文解読に化けてしまいます。
ヴォイニッチ手稿では、その飛躍こそが何度も議論を混線させてきました。
それでも、この仮説には見る価値があります。
というのも、従来の「薬草書らしい」「天文らしい」「女性の身体に関係ありそうだ」という漠然とした印象を、中世の具体的な知識実践へ引き寄せたからです。
筆者はこういう研究に触れると、絵の奇抜さより、誰が何を隠す必要があったのかという社会史の側へ目が向きます。
もし女性の性・生殖知が軸の一つなら、なぜ図像はこれほど婉曲なのか、なぜ文字はなおさら閉じて見えるのか、という問いが立ち上がるからです。
新研究の価値は、答えを出したことより、問いの輪郭を細くしたところにあります。
2024年には、一部フォリオのマルチスペクトル画像も広く検討可能になりました(対象は10フォリオに限られます)。
可視光だけでは拾いきれない下描き、筆致、補筆、彩色の重なり順を追えるようになった意義は小さくありません。
公開・報道例の一つとして、Beinecke の館蔵情報や専門解説(例: Ars Technica の技術解説)を参照するとよいでしょう。
マルチスペクトルの具体的な波長一覧やファイル仕様については、図書館や撮影チームのメタデータを直接確認する必要があります(公開時点での公表範囲に基づく記述であることに留意してください)。
参照例: Beinecke(画像公開) , Ars Technica の報道解説。
Naibbe cipher は何を示し、何を示さないか
2025年のNaibbe cipher研究は、報道だけ追うと「ついに暗号方式が分かった」と受け取りたくなる題材ですが、そこは慎重に読まないと見誤ります。
この研究が示したのは、15世紀の技法の範囲で、ヴォイニッチ文に似た統計的特徴をもつ冗長な同音換字暗号モデルを再現できる、ということです。
言い換えると、「こういう仕組みなら、あの不思議な語の分布や繰り返し方に近いものを作れる」という再現可能性の提示です。
ここでの核心は、解読ではなくモデル化です。
鍵も平文も提示していませんし、本文を一貫して読めるようになったわけでもありません。
暗号文説を補強する材料ではありますが、「だからヴォイニッチ手稿はこの方式で書かれている」と確定したわけではない。
この一点を外すと、研究の位置づけが崩れます。
研究史の文脈で見るなら、従来は「そんな複雑な統計特性を中世の手仕事で作れるのか」が一つの争点でした。
Naibbe cipherは、その疑問に対して「作れる」という具体的な作例を返したのです。
筆者が印象的だったのは、生成例テキストを追ったときの感触でした。
最初はたしかにヴォイニッチ文に似ています。
語の長さ、反復、近接する語の変形パターンが、あの独特のリズムを思い出させるからです。
ところが数行眺めていると、どこか手触りがずれてきます。
似ているのに、ページ全体から立ちのぼる「書かれてしまったもの」の圧が薄い。
ヴォイニッチ文には、意味の有無は別にして、書字習慣とページ設計が結びついた粘りがあります。
Naibbe cipherの生成例には、そこへ届く直前の整い方がある。
似て非なる、という言葉がいちばん近い読後感でした。
この差は研究の弱点というより、むしろ収穫です。
どこまで似せられ、どこから先がまだ再現できていないのかが、見えるようになったからです。
ℹ️ Note
Naibbe cipher研究の価値は、「読めた」ではなく「中世の暗号技法でここまで似た統計特性を作れる」と示した点にあります。次の焦点は、そのモデルがページごとの語彙差、行頭・行末の癖、図像セクションごとの偏りまで説明できるかどうかです。
この流れから見えてくるのは、最新研究を一発逆転の物語として消費するより、検証計画の更新として受け取るほうが実りが多いということです。
女性の性・生殖主題仮説は図像比較をどこまでフォリオ単位で精密化できるかが問われます。
マルチスペクトル画像の公開は、制作順序と加筆の層をどこまで切り分けられるかが次の争点になります。
Naibbe cipherは、再現した統計的特徴が本文全体の局所構造や書記習慣にまで届くかが試金石になります。
どれも「解けたか」ではなく、「どこまで絞り込めたか」を測る研究です。
ヴォイニッチ手稿の2024〜2025年は、謎が消えた時期ではなく、謎の周囲に置く定規が少し増えた時期だったと言うほうが、現状に忠実です。
ヴォイニッチ手稿は暗号史でどう位置づけられるか
未解読資料としての特異性
暗号史の中でヴォイニッチ手稿が占める位置は、まず「未解読資料の王様」という通俗的な呼び名だけでは足りません。
もっと正確に言えば、図像と長文テキストが結びついた中世写本であり、しかも一世紀以上にわたる集中的な研究の蓄積があるのに、合意された読解がなお成立していないという点で、きわめて異例の存在です。
羊皮紙自体は15世紀前半にさかのぼり、現存するまとまった本文量も多い。
断片的な碑文や数行の銘文ではなく、ページをめくるごとに植物、天文、浴槽めいた図像、薬学的な器物が現れ、それぞれの脇に同じ文字体系らしき連続テキストが並ぶ。
この「長さ」と「主題の豊富さ」が、ふつうなら解読の足場になるはずでした。
ところが、そうは進みませんでした。
未知資料の多くは、そもそも残存量が少なすぎるか、逆に図像手掛かりが乏しすぎるかのどちらかです。
ヴォイニッチ手稿はその両方をある程度備えていながら、決定打が出ない。
暗号史の観点では、これは単に難問というだけでなく、「どこまでを暗号学で扱い、どこからを言語史・写本史に委ねるべきか」を突きつける境界事例だと言えます。
古典暗号の歴史には、換字、同音換字、記号化、秘匿記法といった多くの実例がありますが、この手稿はその既知の棚にぴたりと収まらないのです。
筆者がこの手稿を暗号史の棚に置くとき、いつも思い出すのはエニグマや外交暗号の記録との違いです。
近代暗号史では、たとえ当時は解けなくても、運用者、鍵、平文、傍証のどれかが後から出てきて、歴史の霧が晴れることがあります。
ところがヴォイニッチ手稿では、本文、図像、材質、来歴の断片はあるのに、読むための決め手だけが抜け落ちている。
その欠落の仕方が、いかにも中世末の知識文化に似合っていて、しかも研究者を何度も振り回してきました。
だからこそ、暗号史においては「未解読の名物」ではなく、未解読研究そのものの方法論を試す標本として位置づけるほうが実態に近いです。
未知文字と暗号文の違い
この手稿をめぐる混乱の大半は、「見慣れない文字で書かれている」ことと「暗号で書かれている」ことを同じ箱に入れてしまうところから始まります。
両者は重なる場合もありますが、分析の出発点は別です。
ここを切り分けるだけで、議論はずいぶん落ち着きます。
| 観点 | 未知文字 | 暗号文 |
|---|---|---|
| 記号体系 | 文字の値そのものが未確定 | 記号の多くは秘匿のために置換・変換されている |
| 平文の前提 | どの言語を表すか自体が未確定 | 背後に既知または想定可能な平文がある前提で考える |
| まず問うこと | この記号列は文字か、音節か、語か | どの方式で変換されたか、鍵や規則は何か |
| 検証方法 | 対訳、固有名、頻度、文法構造、書記習慣の照合 | 置換規則、頻度分析、既知暗号方式との一致、復号の再現性 |
| 解読成功の形 | 言語として読み下せ、別資料とも対応が取れる | 平文へ戻せ、同じ規則で他箇所も一貫して説明できる |
ヴォイニッチ手稿が厄介なのは、この表の左右どちらにもそれらしい顔を見せることです。
語の分布や反復には自然言語めいたところがあり、主題別に語彙が偏って見える箇所もある。
一方で、語形の変形が規則的に寄り添う様子や、行位置による癖は、人工的な変換や書記的操作を連想させます。
「未知文字の資料」として眺めても筋が通る部分があり、「暗号文」として眺めても捨てきれない部分があるのです。
この違いは、実際にページを見比べると腹に落ちます。
筆者はCurrier AとCurrier Bと呼ばれるページを続けて眺める小さな実習をよく勧めます。
細部を読もうとせず、まずは行の流れだけを見るのです。
すると、語のまとまり方、似た語が並ぶ間隔、行頭で出てきがちな形が少しずつ違って見えてきます。
ここで大事なのは、「どちらが正しい仮説か」を急いで決めることではありません。
同じ文字体系に見えても、内部に層差があるかもしれないという感覚を持つことです。
その感覚があると、未知文字説でも暗号文説でも、単純な一枚岩モデルに飛びつかなくなります。
さらに一歩進めるなら、EVAで自作の語彙リストを10語だけ作る作業が効きます。
植物ページを一枚選び、目についた語を同じ基準で10個拾って並べてみる。
次に天文ページでも同じことをして、語形の末尾や繰り返し方を見比べる。
たった10語でも、似た並びが思ったより多いこと、逆に主題が変わると顔つきの違う語が混じることが見えてきます。
統計と聞くと大げさですが、実際の入口はこの程度の手作業です。
数式の前に、反復と偏りに目が慣れる。
ヴォイニッチ手稿を暗号史の文脈で読むとは、まずこの観察の癖を身につけることでもあります。
学際的協働の必要性
この手稿に対して、しばしば「天才がひらめけば一夜で解けるのではないか」という期待が向けられます。
暗号史にはたしかに、少数の優れた解読者が突破口を開いた場面があります。
ただ、ヴォイニッチ手稿に関しては、その物語に寄りかかると見通しを誤ります。
必要なのは単独のひらめきより、異なる方法を持つ分野が同じページを共有し、互いの見落としを減らすことです。
言語学は、語形の繰り返し、接辞らしき要素、語順の癖、主題ごとの語彙差を扱えます。
写本学は、クワイア構成、筆写の手順、後補の可能性、ページ順の乱れ、筆跡の揺れを読み取れます。
古文書学的な視点が入ると、字形の類似が本当に同一文字なのか、それとも書き手の異体なのかという基礎判断が変わります。
統計は、直感で「似ている」と見えたものを、頻度、共起、位置依存性として測り直します。
暗号学はそこに、置換、冗長化、同音化、記号分散といった実際の秘匿技法の可能性を持ち込みます。
この組み合わせが欠けると、議論はすぐに偏ります。
図像だけを追えば、魅力的な主題解釈に引っ張られます。
統計だけを追えば、ページの作られ方や書物としての歴史が見えなくなります。
暗号学だけで押し切れば、そもそも平文が既知言語である前提を置きすぎる。
逆に言語学だけでは、人工的な変換や秘匿の層を過小評価しがちです。
ヴォイニッチ手稿は、このどれか一つの学問が主役になるというより、各分野が「ここまでは言える」「ここから先は別の専門が必要だ」と線を引き合う場として見ると位置づけがはっきりします。
筆者はアーカイブで複数の写本を並べて見た日の感覚をよく思い出します。
文字が読めるかどうか以前に、紙面の設計、余白の取り方、図と文の呼吸が、書物ごとにまるで違うのです。
ヴォイニッチ手稿も同じで、本文だけをテキストファイルにして眺めると見えないものが、画像で開くと急に立ち上がります。
反対に、画像だけを見ていると気づきにくい反復が、転写にすると浮かびます。
だから研究の現場では、画像、転写、統計表、歴史的比較資料が一枚の机の上に並ぶことになります。
これは遠回りに見えて、実際にはいちばん堅実な道筋です。
⚠️ Warning
ヴォイニッチ手稿の解読は、ひとつの鍵を探す作業というより、図像・文字・素材・統計の食い違いを少しずつ減らしていく作業です。暗号史の難問として見るほど、この協働の形そのものが研究対象になります。
読み始めの実践ワーク
研究史を追うだけでは、この手稿の位置づけはなかなか身体感覚になりません。
読む側も、少しだけ手を動かすと景色が変わります。
そこで筆者がよく行うのが、デジタル画像を使った小さな観察ワークです。
まずイェール大学のデジタル画像で植物ページと天文ページを一枚ずつ開き、図像の脇に置かれたテキストの密度や、ラベル状の短い語と本文の長い行を見比べます。
同じ文字に見えても、図の周辺に置かれた語と本文行では、語のまとまり方の印象が少し違います。
ここで「内容を当てる」のではなく、「どこに短い語が集まるか」「どの位置に似た形が出やすいか」を拾うと、写本としての設計が見えてきます。
次に、先ほど触れたCurrier AとCurrier Bとされるページを連続で眺めます。
筆者はこれをフィールドノート風の観察だと思っています。
最初の数分は、違いがよく分からなくてもかまいません。
行の長さ、同じような語が固まる感じ、行頭の見え方にだけ注目していると、しだいに「こちらのほうが語形の起伏が細かい」「こちらは似たパターンが続く」といった印象が残り始めます。
解読ではなく、ページのリズムを記録する作業です。
この段階で、未知文字と暗号文のどちらに見えるかという自分の先入観も、少し自覚できるようになります。
そこからEVAで10語だけ語彙リストを作ると、統計への入口ができます。
植物ページから5語、天文ページから5語を拾い、同じ語が再登場するか、似た末尾が続くか、1文字違いの変形があるかを書き留める。
10語では学術的な結論は出ませんが、反復には偶然以上の癖があること、そしてその癖がページの主題と無関係ではなさそうだという感触が得られます。
ここで初めて、前のセクションまでで見てきた各仮説の「根拠」と「弱点」が、ただの言葉ではなく観察結果として読めるようになります。
この実習の延長線上には、暗号史の見取り図があります。
植物ページと天文ページの差を眺める作業は、本文が単なる無意味文では説明しにくい局所差を確かめる入口になります。
Currier A/Bの見比べは、本文が一枚岩ではない可能性を手で感じる入口になります。
EVAの10語リストは、統計が専門家だけの道具ではなく、観察を秩序立てるための言語だと気づく入口になります。
こうして見ていくと、ヴォイニッチ手稿は「解けたか、解けないか」で切る対象ではなく、暗号史・言語史・写本史が交差する場所そのものとして見えてきます。
参考情報と確認リスト
以下は記事中で触れた主要な一次・二次情報への参照例です。読者が原典を確認できるよう、主要な恒久リンクを付しました。
- Beinecke(Yale)所蔵カタログ(MS 408)
- Brewer, Keagan & Michelle L. Lewis(2024): Social History of Medicine 論文(DOI
- マルチスペクトル画像公開・報道例(紹介記事): Ars Technica 等の解説記事(例)
- Naibbe cipher(Cryptologia, 2025)等の再現研究: 関連学術誌を参照(Cryptologia 号を確認してください)
参考・恒久リンク(外部):
- Beinecke(Yale)所蔵カタログ(MS 408)
- Brewer, Keagan & Michelle L. Lewis(2024): Social History of Medicine(DOI
- マルチスペクトル画像公開・報道解説(例): Ars Technica(解説記事)
- Naibbe cipher(Cryptologia, 2025): 関連号・DOI 等を学術誌で確認してください
- 来歴まとめ(Voynich.nu)
マルチスペクトル等の技術的詳細(各波長・ビット深度など)を断定的に示す場合は、当該撮影チームや図書館の技術報告のメタデータを直接参照してください。
科学史・技術史を専門とする歴史研究者。エニグマ解読からWWII暗号戦まで、暗号が歴史を動かした瞬間を一次資料に基づいて描きます。
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